リハーノフ総裁
未来を育む「子ども守護の騎士」
アリベルト・リハーノフ総裁 (国際児童基金協会)
池田創価学会インターナショナル会長は,人々に警鐘を鳴らす人です。
ご自身の振る舞いや語らい、著作を通して、人間の誇りに目覚めさせ、心を高めてくださっています。
池田創価学会インターナショナル会長こそ、人間の良心を目覚めさせる人です。
本当の守り手ーすなわち、子ども守護の騎士 なのです。
(2008・3・16創価学園にて)
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未来を育む「子ども守護の騎士」
アリベルト・リハーノフ総裁 (国際児童基金協会)
池田創価学会インターナショナル会長は,人々に警鐘を鳴らす人です。
ご自身の振る舞いや語らい、著作を通して、人間の誇りに目覚めさせ、心を高めてくださっています。
池田創価学会インターナショナル会長こそ、人間の良心を目覚めさせる人です。
本当の守り手ーすなわち、子ども守護の騎士 なのです。
(2008・3・16創価学園にて)
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池田先生の教員スピーチ 1
創価教育の牧口先生、戸田先生が,最大に尊敬していた教育哲学者こそ、アメリカのジョン・デューイ博士(1859-1952)である。博士は、牧口先生より十二歳年上。ほぼ同時代に生きられた。デューイ博士の教育のモットーは、「なすことによって学ぶ」である。 教育現場における 実践 と 経験を重視した牧口先生と相通じるモットーである。 デューイ博士は「学校と社会」「民主主義と教育」 「哲学の改造」 「人間性と行為」「誰でもの信仰」など多くの著作を執筆。よりよく生きるための実践の哲学、人間主義の教育の哲学を確立した。アメリカのミシガン大学、シカゴ大学、コロンビア大学などで教壇に立ち、広く民衆を啓発する論じんを展開していった。 日本、中国でも講演し,トルコ、メキシコ、ソ連などを訪れ、深い影響を与えた。
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日顕原理は日顕の息子の 信彰が 日如の 後継みたいです、
また最近 貫主の次の位の能化が 続けて二人死亡しました。
仏罰です、
以前 日顕は学会の大学生が就寝中 クレーン車両が倒れ 学生が亡くなった 時に 普通の人間なら お悔やみを述べますけど
学会の仏罰だ とわめきたてました。
人間性の 欠片もありません!それを認める宗門は 邪教です
まったくデタラメな 邪教です、戸田先生は既に予見されていました。当然 池田先生は 先手を打たれていました。学会側の僧侶は青年改革同盟を中心に 独立することが広布のためだと思います。
御書のどこに 法主と御本尊様が同じってありますか
完全な邪義です。恐ろしい邪教です。人間を破壊します。
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1933年、博士はナチスの迫害の中、アメリカに亡命。一生涯、平和のための行動を貫いた。1955年、博士は哲学者のラッセルと,世界の大科学者とともに、核廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表する。この宣言に名を連ねた,ボーリング博士、ロートブラット博士とも、私は対談集を発刊し,アインシュタイン博士の精神を縦横に語り合った。 [池田名誉会長はボーリング博士と対談集「生命の世紀への探求」をロートブラット博士とは対談集「地球平和への探求」を発刊している] アインシュタイン博士は述べている。「破滅への道にはつねに理想に対する口先だけの奉仕が伴っていました」(共立出版) "大切なのは実践だ。行動することだ" また博士は次のように語っている。 「真に価値あるものは多数の人々の個人を超えた共同作業によってのみ達成しうるのです」 平和への価値
を創造する我らも,異体同心の団結が要である。さらに博士は、ガンジーの非暴力の闘争について述べている。「強固な信念によって支配されている意思というものが、一見無敵と思われる物質的な力よりも強い」 信心こそ、最強無敵の信念なのである。 聖教新聞より
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池田先生の最近の指導 3
1867年4月。師との出会いから10年後に,高杉晋作は病死する。享年29才。明治が始まる前年であった。 戸田先生は、晋作と同じように体の弱い私を心配し, 「大作が死んだら、学会はどうなるのか」となげかれていた。医師から「30才まで生きられない」と言われていたからだ。 しかし、私は、勝った。すべてに勝ちました! あらゆる障魔を打ち破り、社会を変え、平和と幸福の大連帯を世界に広げた。 この師弟の魂を今、私は、真の後継の青年部に託したい。皆さんが一番の頼りである。青年こそ学会の宝であるからだ。 ドイツ出身のアインシュタイン博士は20世紀最大の物理学者。20代で特殊相対性理論を発表するなど、物理学史を画する数々の理論を構築した。1922年博士は日本を訪問。慶應義塾大学で行われた講演には,牧口先生と戸田先生も聴きに行かれている。 戸田
先生は博士を深く敬愛しておられた。私も大好きな人物である。私は、世界平和国際教育者協会から、博士の名を冠した「アルバート・アインシュタイン平和賞」を拝受した。(1999年6月)非常に深い意義を感じてならない。
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池田先生の最近の指導 2
1864年3月、高杉晋作は脱藩の罪で入獄する。そこは、十年前に師・松陰が入ったのと同じ牢獄であった。晋作は,3ヶ月の投獄を耐え、生きて牢を出た。 そして、1866年、晋作の陣頭指揮の中、長州は幕府軍に勝利。そして明治維新へと、大きく歴史を動かした。晋作は、師の仇を討っていったのである。 戸田先生は、日本の軍部政府によって獄死された牧口先生の仇を必ず討つと 誓い、日本の広宣流布の基盤を築かれた。 私は、全世界に南無妙法蓮華経という日蓮大聖人の平和の大哲理を広めることで、戸田先生の仇を討った。師の仇は弟子が討つーーーこれが、創価の正義の血脈である。 焦点は青年である。青年の時代である。頑張ろう! 戸田先生のもと、私は数々の重要な戦いの指揮を託された。そして敢然と勝利した。私は創価学会を、戸田先生を厳然と守った。諸君も、麗しき創価
の師弟の世界を,守り抜いていただきたい。私は、本当の戸田先生の弟子である。本当の師弟を知っている。ゆえに学会は、ここまで大きくなったのだ。 戸田先生も牧口先生も、どれほど喜んでおられることか。諸天も我らを護り,世界的な学会となった。 師弟を見失えば,広宣流布の前進はない。これだけは,はっきりと言い残しておきたい。これが根幹だ。他は枝葉にすぎない。 婦人部の皆さん,よろしく頼みます!青年部頑張れ! 愚かであってはならない。
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吉田松陰と高杉晋作の出会いは、1857年の秋ごろ。松下村塾に,晋作が入門した。松陰28才 ,晋作19才の時である。そして翌年七月、晋作が江戸に向かうまでの約1年,松陰の教えを受けたのである。 1859年七月、松陰が江戸で入獄すると、晋作は東奔西走し,誰よりも師を支えた。松陰は晋作に"十年間、実力を磨け"と指導している。 そして、この年の10月、晋作は藩命により萩え向かう。この旅の途上、松陰は江戸で刑死する。 享年30才であった。 1863年の正月、晋作は同志とともに、師匠の松陰の墓を,罪人用の小塚原から,若林村(現在の世田谷区)のよき地に改装した。 その墓の前で、晋作は"師の仇を必ず討つ"と厳然と決意する。 これが師弟である。師のために、墓を移しさえした。あのような所は、
師にふさわしいくない。もっと、よき場所にいていただきたいーーーこういう心境であったであろう。 そんなことまでーーと思われるほど、師弟に仕え抜く。これが師弟の誉れである。
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名誉会長の中国訪問は74・5月。しかし、癌手術のため総理は会見を断念せざる得なかった。同年12月、二度目の訪中。帰国前夜の5日、総理から会見の意向が伝えられた。
病状を案じる名誉会長は一旦固辞する。
だが周総理の強い意志を知り、入院する305病院へと向かった。
医師団は、命の保証ができないと反対。トウ夫人にも説得を依頼した。
しかし、周総理は最重要事項であると 譲らなかった。
病室の外で名誉会長を待つ総理。姿を認めると,ゆっくり歩みより、てを握った。
その瞬間、一期一会の喜びが言葉になった。
「池田会長とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」 会見の焦点は,平和友好条約の早期実現であった。
「池田会長は中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。 そのことが私にはとてもうれしい 」
そして"二十世紀の最後の25年は,世界にとって最も大事な時期です"と語り、 未来を名誉会長に託した。
その約束のため名誉会長は今日も行動を続けています。
聖教新聞より
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周恩来総理 「池田会長によろしく」
提言から1年半。87歳の松村謙三氏は,遅々として進まない日中関係の打開のため訪中を断行する。その直前の70・3月、池田名誉会長のもとを訪ねた。
「あなたは中国に行くべきだ」
「是非ともあなたを周恩来総理に紹介したい」
名誉会長は「時期をみて必ずまいります」と述べつつも、国交正常化については政治次元の問題であり、自身が創立した公明党にお願いしたいと提案。
松村氏は周総理に名誉会長のことを伝え、総理は名誉会長の訪中を熱烈歓迎するとの伝言を託した。
翌71・6月。周総理の招聘で公明党代表団が中国へ向かう。訪中団に名誉会長は「私の名前を出す必要は,一切ありません」 と。
迎える中国側はどうだったか。
周総理は,人民大会堂での会見の冒頭、
「どうか池田会長にくれぐれもよろしくお伝えください」と語り、代表団を驚かせた。総理は,公明党が名誉会長の提言を外交政策の柱としていることを熟知していた。交渉に携わるスタッフにも、重要資料として提言が配布されていた。
公明党の訪中から日中交渉は好転。この折りの共同声明が72・9月の国交正常化への基礎となったのです。
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提言は予想通り激しい反発を呼んだ。
嫌がらせや脅迫電話。示威行動。 何故赤いネクタイをするのか との批判。
外務省高官も「中国に対して、ひどく誤った期待を高めさせる」 と不満を語った。
一方、日中友好に奔走してきた人々に,提言は大きな勇気を送った。松村謙三氏(厚生、文部、農林相を歴任)は"百万の味方を得た"と喜んだ。
氏は既に60年代、高崎達之助氏とともに、周恩来総理に学会の発展ぶりを伝えていた。 政界きっての日中のパイプ役である。
中国文学者の竹内好氏は月刊誌 潮 に「光りはあったのだ」 と題する一文を寄せている。
「徳,孤ならず。仁人は稀であるが,天下に皆無ではない」
「ここに先憂の士がいる。私は悲観論を変えたわけではないが,一縷の光りを認めた」 光明日報の特派員として東京に駐在していた劉徳有氏(後の文化部副部長)は,提言のニュースを北京に打電。周恩来総理ら首脳に、内容がいち早く伝えられた。
池田提言を紙面の四分の一をさいて報じた中国の「参考消息」 に素早く書かれた(1968・9・11付,新華社発行)
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